世界はこころでできている

じぶんのこころと向き合って、大切にするための場所です

凡人は自分の人生そのものを作品に

 

突然笑ったり、泣いたりするのは、アフェクトの洪水みたいなものです。芸術家はそれをうまく利用して作品にまで高めるわけですが、普通の人は芸術作品を鑑賞して感激したりするわけでしょう。

それによって自分のアフェクトを少し外へ出しているのですね。 

芸術的才能に恵まれないものは、自分の人生そのものが作品になるのだと考えた方が生きる上で幅も深みも増してくるような気がします。

           『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』河合隼雄

 

 サカナクション山口一郎さんが出演するフジテレビ放送LINER NOTESの録画を見ていたらこの言葉たちが浮かんできた。私のアフェクトの一部は間違いなくサカナクションの歌詞とサウンドによって解放されている。アイデンティティやエンドレス、ミュージックを通じて。

 

 昔から音楽やライブに行くことは三度の飯と同じくらい好きだったけれども、ここ数年LIVEに行って音楽を味わうということがどんどんpersonalな体験になっているのを実感する。大好きで、大切で、心からその音と空間を味わいたいと思うLIVEには”一人で足を運びたい”。同行の友人や知りあいの様子をうかがったり、感想を気にしたりという、その”意識がもったいない”。自分の意識を他人への気遣いに向けるくらいなら、1ミリでも多く舞台上から伝えられるその音楽家たちの表現へと向けていたい。心の底からそう思う。自分の意識のすべてをそちらに集中させたい。だから、その空間には一人でいたい。

こう考えることは利己的だろうか?自分勝手で、社会性の乏しい人間がそのことを声高に恥ずかしげもなく主張しているたわごとに過ぎない、とどこかの誰かは糾弾するだろうか?(それでも私は全く構わないが)

 

 ステージ上の表現者は、私と同じくらい・・・と書くのもおこがましいくらい、真剣に自分の意識のすべてを「表現」に集中させて、そこに立っているはずだ。スマフォでSNSをチェックしながら、LIVE仲間たちと”内輪”を組んで走り回りながら、酒を片手に気楽に回りのノリに合わせながら、、、そこにいるのが恥ずかしくなるくらい。ステージ上の人は自分の持ちうるすべての熱量を瞬間に注ぎ込んで歌い、演奏している...と私は想像する(少なくとも私がひいきにする音楽家たちは)。

それならば。それと同じだけの熱量と意識をもって対峙したい。その場にありたい。その人の作る世界に近づきたい。と、思う。

 もちろん、個人個人楽しみ方は自由だし、私の考えを誰かに押し付けるつもりは毛頭ないけども、これが、私の今の味わい方。音楽に対する対峙の仕方、です。